人間は、皆それぞれ、いつの時代も何かを信じて生きて来た。
みなさん、こんにちは。SHOJIです。
今回は、「信じる」ことの意味について考えてみたいと思います。
みなさんは、人それぞれ、何か信じるものがあって日々生きているのではないでしょうか。
それは、例えば、きょうという一日、朝、目が覚めて回りの存在を確かめて始まりますよね。
それが当然として、事実を受け入れて過ごしている。
でも、それは、その現実を信じているからそう思えるんじゃないでしょうか。
何が言いたいかと言えば、人間の思考の根本には、いつも「信じる」という行為がまずあるということです。
人間の「認識」とは、信じたもの・ことを一つひとつ確認して出来上がっているわけです。ぼくはそう思います。
では、人類の歴史の中で、皆、何を頼りに生きてきたのか。
原始時代から現代まで、人間は何を信じて生きてきたのか。
これが、動物なら、ただ「本能」のままに生きてきただけかもしれません。
しかし人間は、やはり何かを拠り所として、「精神生活」と「物質生活」を同時に営んできたんだと思います。
それが、自分を超えた存在、「神」「仏」「自然」「宇宙」とかの概念が、生まれてきた理由だと考えます。
昨今、現代人は、世界的に「人間中心」の思想に基づいた「文化」を押し広げてきた感じがあります。
しかしそれは、「唯物論」という名の「信仰」であり、「科学」を拠り所として信じる世界観ではないのか。
なぜなら、「宗教」とか「神」とか「霊」とか「あの世」を信じないと言いながら、信じる対象が変わっただけだからです。
なぜ、ぼくが「大川隆法」を信じるのか考えると、「神仏への信仰」にいきつく。
さて、「信じる」という事の核心に入りましょう。
いきなりですけど、まず、ぼくが、なぜ、「大川隆法」を信じるか、ですが、
はっきり言って、その根本に理由はありません。理由を超えた何か。自分の魂が感応したからです。
自分の心の奥にそれとつながるエネルギーを感じたからです。
確かに氏の著作を幾千幾百冊かは読みました。公開している講演は、ほとんど生と録画・録音で聴いています。
それで、理論的に確認し、自分の脳で納得したのは、事実です。
でも、信じるという行為は、理屈じゃないんです。やっぱり、「勘」。ひいては、「賭け」なのかもしれません。
「死ぬか生きるか」のギリギリのところにあるのが「信仰」なんです。
みなさんは、こう言うと、いぶかるでしょう。
だから「宗教」は怖い。だから「新興宗教」は、いかさまだ。
そう思う人がいるのは、知っています。
しかし、ぼくは、こう思います。
「宗教」であるとかないとかはどうでもいいんです。要は、その教えの元にある「存在」を認めるかどうかです。
「神仏」をどうどらえるか。宇宙の根源、この世界、この生命を生み出した、「創造主」を信じるかどうかです。
そして、なぜ今、「宗教」が現代社会に必要かと言えば、あまりにも人々の「心」が廃れているからですよ。
自分中心・人間中心の価値観が「常識」として蔓延ってるからですよ。
「幸福の科学」の教えの基本は、いたって当たり前のことがベースになっています。
「愛・知・反省・発展」この四つの項目で、「正しい道」を探求し実践しましょう。いたってシンプルな教えです。でも、その当たり前が今はそうじゃなくなってる。だから「宗教」の復活が必要なんです。過去の伝統宗教の教えは形骸化しています。形式だけが残って、現代の生活感覚にフィットしない。言葉が心に刺さらない。死んだ教えが大部分なんです。
世間は、ともすれば「新興宗教」だと、それだけで色メガネで見ようとしますが、そもそも「宗教」は、三大世界宗教と言われる「キリスト教・仏教・イスラム教」でも始まりは、みな「新興宗教」だったわけですよね。
ですからジャンルとしては、「幸福の科学」は新興宗教ということになります。でも、それは、現時代に現れたリアルタイムの「教え」だということでもあります。
実際、大川隆法という人が1981年に「霊道現象」を通じて、普通は目に見えない霊人から直接通信を受けたのが始まりです。その時の事を本人も述懐してますが、「自分自身、初めは信じていなかった」〝事件〟だったのです。そんなはずはないと疑ったんです。その後、その現象は日々続き、日常的に「霊」との対話は止みませんでした。そして、2年3年4年5年とその生活を継続して、その間、その「霊言」の内容を徹底的に検証して、「これは疑う余地はない」と確信した段階で、はじめて世に問うために出版という形で、発刊したのが1985年。『日蓮の霊言』だったのです。
ぼくは、そういう経緯を本を読んで知り、本人の講演を聴いて知り、「幸福の科学」の会員になって知ったわけです。それはすべて、この今の時代に起こったリアルタイムの出来事です。そして、ぼく自身も、大川隆法氏の原体験を通じて、この1986年から現在2024年にかけて実体験しているわけです。今、きょうもそれは現在進行中の話です。確かに「大川隆法氏は2023年にこの世を去っています。」しかし、「霊存在」はこの世とあの世を貫いてあるのだから、肉体は死んでも魂は死んでないでしょう。
なのでこういう「現実」を総合して、ぼくは「大川隆法」を信じるに至ったのです。それが「信仰」の実態です。
それぞれ、何を信じて生きるかによって、「人生」は変わる。
人間は何を信じて生きるかによって、その生活と行動は違ってくると思います。何も信じないで生きることは、現実的には不可能じゃないかな。信じることは、「認識」につながります。この世界のあらゆる事物、ひとつひとつを認識するには、まず自分自身に対しても自分という存在を認めることからはじまりますよね。その認めるという行為は、言葉を変えれば「信じる」ということです。他者を認めるのも、その存在を信じないと、それは無いわけです。空気、空、風、太陽、山、川、海、周りの自然とされるもの、全部、あると信じてるからあると認識するわけです。なので、自分と対象物が何であれ、まず信じ、認識してるんですよね。まあ、だから、みな、何らかを信じて毎日、過ごしてるわけです。
現実の問題として、信じるものと疑うものを比較して話しましょう。
現代の情報社会で、それぞれの人が日々の情報に接し、それをどう受け止めるかによって、いろいろ結果や行動は違ってきます。
例を上げれば、今回の「コロナパンデミック」。これに対してみなさんはどう反応しましたか。マスコミ・政府・自治体・「専門家」と称する医療者、学者と情報は多々ありました。ぼくは、これらの情報を鵜呑みにしませんでした。疑問を感じました。だから、コロナ禍の期間、日本中に蔓延したあの「マスク」習慣。ぼく、マスクしてません。ぜんぜん。まあ、しょうがなくてしたのは、映画館に入る時と、デパート・三越百貨店で呼び止められて、買い物してる間だけ、マスク着けたことはありますw。こういうように、テレビの言ってること、NHKニュースの報道、信じてません。「公共放送」を盾に間違った偏向報道を流すのは、止めてほしいと強く思います。最近では、地震に関する「注意喚起」の異常な押しつけ。あれも腹が立ってきます。いちいち「命を守る行動をとってください」の一点張り。「そんなもん、あったりまえだろうが。言われんでも、自分で責任持ってやるわ。」って言いたくなりますw。だいたい、気象庁に地震の予知なんかできるか。地震はいつも、突然に揺れるわけで事前にわかるだけの科学技術は、まだ無いでしょ。増してや責任ある公共放送なら、素直にわからないことは「わかりません」と公式発表するのが、正当な態度だと思う。天気予報とは、わけが違うんだから。不確定な情報を流すのは却って迷惑。世間に悪影響しか及ぼさない。ということで、ちょっとヒートアップしちゃいましたが・・・
結論に入ります。要は何が言いたいかと言えば、ぼくという人間は、そんな簡単に世間にまき散らされた「プロパガンダ」情報に騙されないってことです。そういう人間が、インチキ新興宗教をコロッと信じるはずないってことです。それぐらい慎重に情報を精査して、学び、探求して、選び取った「思想」「教え」が「幸福の科学・大川隆法」の仏法真理を体系とした「あの世の実在・霊的世界・宇宙の成り立ち・宇宙人との関係」そして、何よりも「心」の真実。「根本神仏」の価値観で説かれた人間の生き方。それをぼくは信じたということです。諸々、全ての「情報発信」の中で、この「エル・カンターレ信仰」を選択したんです。
ということで、今回は、「信じる」とは何か。「信仰」とは何か。考えながら述べてみました。みなさんの「心」に響くものがあれば、幸いです。またね。(つづく)
価格:1650円 |
価格:1980円 |