今、この世の中に必要なのは「宗教」ではないだろうか。
こんにちは。SHOJIです。
冒頭から、直球で攻めたいと思いますw。
この日本社会が「宗教」を敬遠している風潮があることは、百も承知です。去年(2024年)も、政府自民党と統一教会の癒着が取り沙汰されてきました。社会問題となり、一般国民は、一層「宗教」のおぞましいイメージを増幅された感はありますよね。
でも、そこで言うわけです、ぼくは。
毎日、テレビのニュースを見ていて、「ええーーーーこんなことあるのぉ」「何考えとるんだ、こいつ」とか思いながら、殺人・強盗・詐欺・性犯罪の類いが普通に事件として流れてくるよね。よくもまあ、ひっきりなしにあるので、だんだん慣れてくるけど、これ、いくらなんでも「ちょっと変なんじゃない」。
物事には「善悪」があるって事が、忘れられてきたのか、悪いと知りつつもやってしまうのか、いったいどうなっとるんだろう。やっぱりこれは根本的な「心の問題」じゃないだろうか。
昔、小学校の授業で「道徳」の時間があった。今もあるのか知らないが、あれは子供に「善悪」を考えるきっかけにはなっていたと思う。こういう根本的な心の持ち方、基本的な行動指針が一般社会に薄れていっているのが現状なんだろうと思う。これを復権させるには、やはり「宗教」が必要になってくる。日本国民の宗教アレルギーの原因は、マスコミ情報の中身が負のイメージに偏っているからだと思う。もう少し公平な視点で良い部分は賞賛して伝えないと「宗教」に対する誤解は根拠なく増えていくばかりだろう。
問題なのは、人々の心にベースとなる「善悪」を分ける価値基準があるかないか。それが人間中心自己中心で考えるか、人間を超えた「神仏」を念頭に置いて考えるかで違ってくる。自分さえ良ければ他人はどうでもいい。まず、自分の利益を優先して「幸福」を追求する。これは、人間を人間中心の価値観で考えれば、自ずとそうなるという事です。科学信仰と唯物論が合わされれば、人間至上主義になるのは当然の帰結でしょう。ここに、現代の文明社会を牛耳ろうとするひとつの流れがあります。これに対して、「神仏」の存在を真から信じる人々もいます。神仏に対する信仰が根本にあっての人間存在であり、人間の生きてる意味を神仏の意思と繫げて考えるからこそ、そこに他者への愛、配慮が出てくるのだと思います。政治も経済もいっしょです。まず、おおもとに「宗教的バックボーン」がないと、世の中を良くするとはどういうことかが分からなくなります。
「倫理観」の欠如。これが、今、「宗教」が必要な理由です。経済システムが単なる「金儲け」至上主義になると、皆、自分が儲かる事を優先して生活するようになります。自分だけ良ければそれで満足とする世の中になれば、その「繁栄」は自ずと人間の欲望が支配する社会になるでしょう。
ですから、何が言いたいかと言えば、「宗教」を十把一絡にして論じないでちょうだい。オウムや統一教会は、宗教を装った犯罪です。そんなものと幸福の科学を一緒くたにしないでください。本来の宗教は、神仏への純粋な信仰心を元にした人間に対する心の教えです。真っ当に善と悪を分け、自分と周りの人々を愛する生活を是とする、指針を与えるものです。
実際の政治・政策にまず必要なのは、基本的な倫理観と道徳心。
政治の役割は、人々の生活に充実した環境をいかにして整えられるか、だと思います。
では、その充実した生活とはどんなものでしょう。まず、「衣食住」。毎日の住む場所があり、三度の食事と身支度が揃っている状態。あと、精神的な余裕があり文化的な事項を感受できる時間がある。こうした「幸福な生活」を実現するために必要な手段としての政治。ここでまず必要なのが倫理観と道徳心だと考えます。ベースに「徳」のある政治を、まず基本とすべきです。
昨今、取り沙汰されている「政治と金」の問題。これも、基本的な倫理観と道徳心の欠如から来るものでしょう。政治に金がかかるのは当然ですよ。何らか政策を実現するための資金なら必要経費ですから。いけないのは、私腹を肥やす政治家の人間性に問題があるわけです。こんなもん、政治をどうこう言う以前の問題ですよ。だから、政治家に基礎的な宗教心が必要なんです。政治と宗教の関係は、心の中にある事です。政治団体と宗教団体の組織的癒着による権力や利権の発生が問題なのとは次元が違うんです。あくまでも、その個人としての心情が問われるわけです。徳のある政治。宗教的良心、人徳ある政治家が、求められるのは至極当然の事だと思います。
日本国民に、そしてそのリーダーであるはずの政治家、国会議員、政府、総理大臣に、もう一度「宗教」を学び直す必要があるということです。もう少し本当の意味での宗教心・倫理観・道徳心を純粋に見直す必要があると思います。
自由と自立の社会がいいのか、楽であれば隷属でもいいのか。
「資本主義」の中に入り込んだ「国家社会主義」。
政治が人々の生活を良くするための道具だとすれば、その生活がどうあれば「幸福」と考えるかによって、政治に期待するものが変わってくる。自分の生活が補助によって支えられて自分はできるだけ楽して生きたいのであれば、政府に依存することになる。逆に、自分の生活は自分で立て仕事して稼いで成り立つ方がよければ、政府にとやかく言われるのは嫌だから、補助金なんか当てにせず余計なお世話は入らないとなる。
これが、大きな政府か小さな政府を選ぶ分岐点になる。この人々の精神性がどっちに向いているかで「世論」は決まる。しかし、そもそも個人や企業への補助金、保育・教育・介護などの社会保障と無償化のための資金は、全部国民の税金から出すわけで、「増税」がセットになっている構造(カラクリ)がある。だったら、税金取られずに自分で稼いでそれぞれの実力で生活をきりもみした方が健全なのではないか。
要は、「自由」が好きか、「従属」が好きか。自分の人生を自助努力を中心に考えるか、他者からの扶養を前提として考えるか、どっちを求めているかによって、「政治」への期待も違ったものになる。だから、国民ひとり一人の人生観・死生観は、意識の奥に「宗教心」の有無が強く反映されるのだろう。実際の「民主主義社会」は多数に決定権があるので、結果的には国民の総意に委ねるしかないが、よくよく本質を見極めて選択するのが賢明だと思う。
世の中をよくするための理想があってこそ政治が生きる。
人間として正当な信仰心が物事の規範になるべき。
さて、結論に入ります。
世の中をよくするための手段は政治です。その政治の内容はその内にある心です。思想・考え方です。それを培うための根本が宗教的心情です。この社会を具体的に規定する法律を国家の政策として施行するのは政治家であり官僚であるでしょう。だからこそ、政治を執り行う人間が正当な良識を持っている事が問われるべきなのです。政治家の役割を担うには、倫理観・徳がどうしても不可欠です。それを養うために宗教心があります。この関係図式。政治と宗教の役割としての構造を示す事が重要なのです。土台があってこその手段であり、そこに世の中をよくする目的達成への気概も生まれてくると考えます。
今一度、世間の人々に言いたい事は「宗教」に対する認識を真っ新にして考えてみてください、ということです。マスコミの流す被害と事件性だけクローズアップした報道だけで判断したら「負のイメージ」しか残りません。あれは、悪徳教団の犯罪事例であって、宗教そのものの教えの内容・信仰の意味とは別個の問題です。そして、ぼくが信仰する「幸福の科学」は、分類としては新興宗教の一教団ですが、「エル・カンターレ」は、全人類共通の魂の親にあたるべき存在なんです。単なる一宗一派の利得じゃないんです。人間の生きる基盤に指針として必要なのが、本来の宗教なんです。それがわからなくなったこの現代世界に「仏法真理」を伝えるために生まれたのが「大川隆法」なんです。
後は、みなさんの判断に任せます。信じるか信じないかは、操作できないからです。それぞれの心は、他人が決めれません。自分で選択するしかないんです。
ということで今回はここまで。あなたが読んでくれたことに感謝します。ありがとね。じゃあね、また。(つづく)
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